飯島愛さんのお別れ会に700人もの人が参列した、というニュースをテレビで見た。
弔辞を読んだ人々は皆号泣していて、ああ、愛されていた人なんだなあと思った反面、正直その700人の中には、連絡が取れなくなった時すぐ見に来てくれる人はいなかったんだ・・・と思ってしまった。
亡くなった後、どんなに言葉をかけてあげても、もうその人の耳には届かない。
もし愛さんに言ってあげたいことや、してあげたいことがあったなら、彼女が生きているうちに会ってあげなくてはいけなかったのだ。
たぶん、参列していた人たちの涙の中には、そんな思いも含まれていたに違いないと思う。
ただ、みんな日々忙しく生活していて、もう自分と自分のまわりのことだけでいっぱいいっぱい・・・というのが現状なのだろう。
私だってそうだった。
年賀状で「<今年こそ>お茶しようね」「<機会があったら>どっか行こうね」と書くような間柄の人が、いかに多かったことか。
内心、今年も<機会>なんてないんだろうなあ・・・と思いながら、毎年毎年同じようなことを書き、そのうちその偽善に耐えられず、年賀状のやり取りさえしなくなってしまう。
そうなのだ、会う<機会>は、たぶんお互いに努力して作らなければ永久に訪れないのだ。
そして意外なことに、作ろうと思えば作れるものであるということも、病気をしてからしみじみとわかった。
あともう一つ、「調子の良くない人との距離のとり方の難しさ」というのもあると思う。
愛さんが心の調子も体の調子もあまりよくないようだということは、みんな知っていただろうから、あまり関っては負担になるのではないか、迷惑なのではないか、という周りの人の配慮が、彼女を孤独にしてしまったのかもとも思う。
実は私にも一人気になっている人がいる。
彼女の心の調子、体の調子がよくないことを知って、何か自分にできることはないかと考えた。
しかし関りはあったものの、そんなに親しくもなかった自分がごちゃごちゃ関ることで、かえって病状を悪くしてしまうのではないか・・・という思いから、結局今まで何も出来ずにいる。
幸い家族と暮らしている人なので、愛さんのようにはならないと安心しているが・・・迷惑かも知れないが連絡をとってみようかと考えさせられた。
飯島愛さん、ご冥福をお祈りいたします。
700人
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体調悪い人にはどうやって関わっていいのかわからない事がありますね。私にも気になっている方がいるのですが、どんどんメールしていいものか、電話までしていいものか。迷惑なんじゃないかと考えてしまいます。
でも、連絡もらえれば嬉しいんじゃないかとおもい、続けてみようと思っています。
うんうん、どれくらいの関わりを持ってもよいのか、ほんと難しいですよね(たぶんその人によっても違うだろうし)
ただ自分が「調子のあまりよくない人」になって思うのは、メールもしくは手紙くらいの距離感が一番嬉しいかも・・・ってことかな。「返信はいつでもいいからね」とみんな書き添えてくれていて、すごく暖かい気分になります。
誰かが自分を気にかけてくれているって、すごく嬉しいことですよね♪
愛するということはその人のことを忘れないでいることだ、といつか本で読み自分の中で納得していましたが、それだけでは相手に愛されてる感は実感できないのだ、ということを今回思いました。自分がそうされたら嬉しい、心地いいだろうな~と思える小さなことを、さりげなくしてあげられたらいいのかもね。
自分の気持ちを相手に伝えよう、とすることが、たぶん大切なんだね。時にはうっとうしがられても・・・(娘とちょっと喧嘩してしまいました。私は自分の気持ちを伝えたかっただけなんだけど、失敗です・泣)
まだまだ修行が必要なようです。
思うような反応が返ってこなくても望さんの気持ちは伝わってると思うよ、わかっていても素直に認めたくない時があるからね。私は年甲斐もなく未だにそういう事があるので反省です。言い方や、タイミングもあるしね。めげずに進もうよ!前進あるのみ(笑)
ありがとう!
昨日一応仲直り(?)しました。私の言いたかったこと、なんとなくわかってくれたようです。(ややあやしい)
ほんと、前進あるのみ!だね♪